五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

失敗気味のイメチェン

 今日、久し振りに仙台の女の子からメールが来ました。この女の子とは、6月頃に仕事で何回か打ち合わせを持っただけですが、職場では珍しい眼鏡っ娘だっただけに、よく覚えています。普段は違うフロアで仕事をしている為、最近はなかなか顔を合わせる機会もなかったのですが、取り敢えず元気に仕事できているみたいで何よりです。
 さて、この女の子、6月頃に派手なイメチェンをしました。元々は、紫淵の眼鏡に広末涼子カットで、その仙台訛りと相俟って非常にインパクトの強いキャラでした。まぁ、私にとってはストライクゾーンど真ん中って感じだったのですが、世間一般にも決して嫌われるタイプではなく、寧ろその朴訥さが好感を呼ぶようなタイプでした。しかし、打ち合わせで最後に会った時、この女の子の出で立ちは大きく変わっていました。広末涼子カットの綺麗な黒髪はウェーブを掛けた茶髪へと変わり、紫淵の眼鏡はコンタクトレンズへと変わっていました。そして、ナチュラルメイクだった化粧は一気にケバくなり、何処の場末のホステスなんだアンタはと思わず言いたくなるほどでした。
 その一気に変わった外見に私は吃驚しましたが、相変わらず抜けきっていない仙台訛りに、私はある種の安心感を覚えました。やっぱり、この子はこの子なんだなぁという事です。外見は簡単に変えられるかも知れませんが、中身はそう簡単には変わらないものなんですね。
 とは言え、私はこの女の子の行く先がかなり気掛かりでもあります。元々、標準語*1で喋ろうとしてもボロボロと仙台弁が出てしまうような子だったのですが、本人もそれをコンプレックスに感じていたのか、仙台弁が出てくる度にどもってしまっていました。恐らく、今回のイメチェンは、そうした「田舎者である自分」への嫌悪による所が大きいのでしょう。
 しかし、幾ら外見だけをイメチェンした所で、当然ながらオツムの中身が変わるものではありません。一応、世の中には意識改革なんていうものもありますが、特に訛りというものは、一朝一夕に抜けるものではありません。となると、下手に外見だけイメチェンしてしまうと、外見と中身とのギャップで今まで以上に強いコンプレックスを感じる事になってしまいます。これでは、折角のイメチェンも逆効果です。
 これはあくまでも私の考えですが、訛りなんか気にする事はないのです。ある程度訛っていた所で、会話が全く成立しなくなる事などあり得ません。ましてや、システム屋同士の打ち合わせともなれば、どうせ会話はテクニカルタームだらけになるのですから、訛りによって会話が通じなくなる事など絶対にあり得ませんし、そんな事があるようなら、それはシステム屋の会話ではありません。
 私は、訛っている事それ自体を嗤う事は一切しません。方言が立派な言語文化の1つである以上、その方言の発露である訛りを嗤う事は、方言という言語文化そのものを嗤う事であり、方言に対する侮辱に他ならないからです。もし、私が訛りを嗤うとしたら、それは訛っている本人が訛りそのものを殊更に卑下し、訛りを恥じて必死に隠そうとしている時です。私の侮蔑の強さは、訛っている人間の卑下の強さに比例します。訛りを隠そうとすればするほど、喋り方は滑稽になるものです。
 一応、私も物書きの端くれとして、自分の言葉だけは大事にしたいものです。私の思いは、言葉を介する事でしか他人には伝えられないのですから。

*1:世間一般には「標準語」などと言いますが、その実態は文部科学省推奨の似非東京弁でしかありません。まぁ、どんな言語であろうと確かに「標準語」は決まっていなければならないのですが、果たしてそのベースが東京弁で良かったのかどうかは、今一度再考する必要があるかも知れません。