五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

チビチリガマから考える「当事者としての歴史」

 今日の午後は、読谷村を中心に戦跡巡りをしていたのですが、その中でも特に印象的だったのが、「集団自決」の現場となったチビチリガマです。まぁ、本来は「集団自決」なのか「集団死」なのかという議論から始めなければならないのですが、今回は都合により割愛します。当然ながら、ブサヨクの私は後者の「集団死」説を採りますけどね。両者がどのように違うのかは、各自テキトーにぐぐって下さい。
 さて、話をチビチリガマそのものに戻します。何が印象的だったのかというと、チビチリガマの前に立つ1枚の看板です。どんな看板だったのかは、この写真を見て下さい。

 この看板から見て取るべき事は、遺族と歴史屋との温度差です。チビチリガマ沖縄戦の悲劇を伝える史跡である事は誰もが認める所ですが、それと同時に遺族にとってはチビチリガマは家族の最期の地でもあるのです。歴史屋或いは反戦屋のプロ市民は、チビチリガマの歴史的側面ばかりに注目する剰り、こうした遺族感情に対して無頓着になり過ぎてはいないでしょうか。「沖縄は日本軍や米軍に土足で踏み躙られた」と喧伝するのに、その踏み躙られた遺族感情に土足で踏み込むのは、ダブルスタンダードに他ならないのです。
 実は、ここに来る前に、読谷村役場でチビチリガマ及びシムクガマの位置などを聞いてきたのですが、その時に役場職員から強く注意されたのは、チビチリガマはあくまでもお墓であるという事です。それ故、絶対にガマの中には立ち入らないで下さいとの事でした。その時点では、その言葉を余り強く実感できませんでしたが、実際に現地へ来てこの看板を目の当たりにして、漸く役場職員の方が言っている事がどういう意味なのか、私は理解する事ができました。我々にとっては、チビチリガマは所詮「歴史」でしかありませんが、読谷村の人々にとっては、チビチリガマは今でも「記憶」であり続けているという事なのです。



 今日のニュースで、レーダー探査で古墳の年代が遡ったなどというものがありました。

○奈良・堂ノ後古墳は最古級?学生のレーダー探査で判明

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20051104SSXKF017604112005.html

 チビチリガマにしろ堂ノ後古墳にしろ、「お墓」である事には何も変わりはありません。今後、堂ノ後古墳にどのような調査が加えられるのかは不明ですが、やはり古墳の発掘は当事者にとっては死者への冒涜に他ならないものとなる危険性を常に包含しています。被葬者の関係者が生存しているか否か、或いは被葬者に社会的地位があったか否かという違いはあるかも知れませんが、こういう所で被葬者への配慮ができるかできないかというのが、歴史屋が「歴史屋」と罵られない為に重要なポイントであるような気がします。
 歴史屋が、その好奇心からどんどん歴史に踏み込んでいきたくなるのは、地理屋の私にも理解できます。しかし、人一倍歴史に通じているからこそ、人一倍歴史の当事者の気持ちも理解できるのではないでしょうか。地理屋として人並み外れた行動力を持つ私自身への戒めとしても、「景観として見られる側」への配慮は常に意識すべきであるものと思います。