五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

地域スーパーエゴ

 やっとこさTV版「涼宮ハルヒの憂鬱」を見終わりました(;´Д`)
 作品内容については、私が言及するまでもなく、リアルタイムで見ていた人々や原作から読んでいる人などがはてなダイアリー市民にも数多くいる事でしょうから、ここでは重ねて触れる事はしません。まぁ、兵庫県西宮市を舞台にした学園ドラマ風SFドタバタコメディーと曲解しておいて間違いないんでしょうが、私が興味を持ったのは、またも作者の出身地や現住所を舞台とした作品が出てきたという事です。
 小説や漫画・アニメなどにおいて、作者と縁の深い地が舞台となる事はままあります。代表例では、壺井栄の「二十四の瞳」や井上靖の「しろばんば」などがありますし、近年の漫画においても、水沢めぐみの「姫ちゃんのリボン」や高橋しんの「最終兵器彼女」など、枚挙に暇がありません。「涼宮ハルヒの憂鬱」の場合、兵庫県西宮市は谷川流の出身地であり、谷川流が学生生活を送った街でもあります。それ故、作中における情景描写が具体的になり、作品だけでなくその舞台となった土地にも興味を引かれる事になるのです。
 通常の作家が、その舞台に自分と縁の深い土地を選ぶのは、ある意味自然なものでしょう。何も知らない土地を舞台にするよりも情景描写が容易になりますし、それだけ作品に躍動感を与えやすくもなります。しかし、私のような地理屋にとっては、こういう舞台選択は「逃げ」にしか見えません。何の縁もない土地でまともな作品を書けてこそ、真の一流作家ではないのかと、臍曲がりな私は思ってしまうのです。
 実は、出身地や現住所に流れる傾向というのは、何も小説や漫画だけの話ではなく、地理学における論文の世界でもよく見られます。流石に、学位や職格を持つ地理学者であれば、ある程度は研究テーマに沿った地域選択をしますが、学部生の卒業論文レベルだと、その85%は出身地や現住所から研究テーマを後付けしたようなものです。それ故、卒業論文を読めば出身地や現住所が分かるという、何ともトホホな状態だったりします。
 本来、地理学或いは地理を究めんとする者は、自己の居場所を客観視する能力を持たなければなりません。自己の視点から対象を観察する限り、その土地を真に理解する事は出来ないからです。上記のような出身地や現住所をフィールドとした論文では、結局は地域の中にいる自己の視点でしか物事を語る事が出来ず、他地域でも通用する普遍的な理論は得られないのです。
 私の学生時代は、正にこの「客観視」への挑戦でした。その為には、関東に住む人間としての視点や先入観を捨て、各々の地域における視点を獲得しなければなりません。卒業論文の取材で北海道から沖縄まで駆け回り、ある程度「東京の常識は日本の常識」という誤った先入観からは脱却できたかと思いますが、それでもまだ私の視点は東京から発されている部分が大です。恐らく、私の「客観視」への挑戦は、生涯続いていく事になるのでしょう。
 こうした視点の確保は、決して誰もが容易に為し得るものではありません。しかし、誰もが自己のフィールドからの視点しか持ち得なければ、社会は茫々たる地域エゴの相克になってしまいます。地理屋の使命は、こうした地域エゴの相克を治めるスーパーエゴたる事です。それが出来なくなった時、地理学或いは地理という学問分野は、いよいよその存在を自棄する事になるのでしょう。