五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

大往生

 昨日、家で飼っていた犬が、老衰で亡くなりました。
 享年18。柴犬としては異例の長寿でした。



 今月に入ってから体調を大きく崩し、一時は自力歩行さえも出来ない状態でした。投薬によって少しは体力を取り戻したものの、先週末からまた節食すらままならない状態になり、最後は室内で寝たきりの状態でした。日々衰えていく愛犬の姿は見るに忍びないものでしたが、病気で苦しみながらの最期ではなかったという事だけが救いです。
 思い返せば、17年前の里親募集で出会って以来、この犬の一生は常に私と共にありました。万事において至らぬ飼い主だった私ですが、里親の鉄則である終生飼養だけは果たす事が出来ました。最期まで我が家の一員だったという事で、私も胸を張ってこの犬を送り出す事が出来ます。
 私が最後に散歩に連れて行ったのは、検査入院の前日となる今月1日の事でした。家の近所をくるっと回るだけのショートコースなのですが、既に足許が覚束無い状態だった為、10年前は走って5分と掛からなかった道程を歩くのに30分も掛かってしまいました。何度も転倒しながら必死に歩き続け、何とか家まで帰ってきた時、私はその姿に思わず涙を流してしまいました。しかし、翌週・翌々週と広島出張やエコノミクス甲子園観戦の予定が入っていた私は、その時点で「これが最後の散歩になる」という予感があり、そういう覚悟もしていました。結局、その予感は現実になってしまいましたが、逆に不思議と悔いは残りませんでした。恐らく、私自身も既に気持ちの整理が出来ていたのでしょう。

 私が飼った犬は、この犬が最初で最後です。それと同時に、この犬にとっても、私が唯一の飼い主であり、私以外の人間の飼い方というものも知りませんでした。そんな中で、果たしてこの犬が私と出会った事、私に飼われた事が幸せだったのか、私には知る由もありません。人間同士でさえ、お互いの気持ちを本当に知り合う事が出来ないというのに、犬の気持ちを知ろうなどと思う事自体、本当は烏滸がましい事なのでしょう。
 ただ、私は飼い主として出来る限りの幸せを与えた心算です。それと同時に、私もこの犬から沢山の幸せを与えられています。本当に幸せだったのかを知る術がないからこそ、この犬は幸福の内に天寿を全うしたのだと信じるしかありません。最早幸せを与える事が出来ない以上、そう信じる事こそが飼い主としての最後の、そして永遠の使命なのでしょう。
 我が家には、犬を放し飼いに出来るほどの庭はありませんでした。毎日の餌にしても、決して高級なペットフードなどではなく、そこかしこのホームセンターで売っているようなドライペットフードばかりでした。決して、犬にとって恵まれた環境ではありませんでしたが、その中で最大限の幸福に包まれていたはずです。その幸福こそが、私からの冥土の土産です。

 今日、17年間連れ添った私の愛犬は、近所のペット霊園に埋葬される予定です。本来なら、私は今頃広島にいましたから、葬儀に立ち会うどころか、その死を知る事すらありませんでした。今週の出張が急遽キャンセルになったのは、ひょっとしたら自身の死期を察しての「導き」だったのかも知れません。
 私と出会わなければ、僅か3ヶ月で殺処分されていたかも知れなかった小さな命は、凡百の犬を遙かに上回る長寿を授かる事が出来ました。その最期を看取る悲しみは、ある意味、終生飼養の使命を全うした飼い主にのみ与えられた権利です。この犬を送り出した後は、その悲しみをいい思い出へと変えたいものです。