という事で、大晦日の日記で触れた本を早速読了してしまったので、そのレビューでも(つ´∀`)つ
- 作者: 五木寛之
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2011/12/09
- メディア: 新書
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○投げっぱなしジャーマンとは (ナゲッパナシジャーマンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%8A%95%E3%81%92%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%AA%E3%81%97%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
よく考えると、自腹を切って五木寛之氏の著書を購入するのは初めて*1なのですが、如何にも「勝ち逃げ世代」っぽい言説に読めてしまいました。それは、恐らく私自身が「ロスト・ジェネレーション」のど真ん中にいる事によるルサンチマンもあるのでしょう。
氏は、17ページでこんな事を書いています。
世界は確実に下山していく。新興国といわれる巨大国家にしてもそうだ。いまや国境なき放射能の時代に、一国だけの興亡はありえないのである。
そんな時代に私たちは生まれあわせた。それをくやんでみたところで仕方がない。どんな時代にも、それ相応の人間の営みというものがあるのだから。
要は、ロスジェネに対して諦めろと言っているのと同じです。「下山の時代」に合わせた生き方をしなさい、と。では、それが何処まで続くのかというと、63ページではこんな事を書いています。
下山の時代がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけではない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。
戦後半世紀以上の登山の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。
つまり、今後半世紀は「下山の時代」が続くという事です。となると、我々ロスジェネは死ぬまで「下山の時代」に生きなければならないという事です。もう、希望も何もあったものではありません。
しかし、一方で氏は、11ページでこんな事も書いています。
言い古された話だが、自殺者の数が十三年連続して三万人をこえた。三万数千人というのは公式の数字である。ハッピーな数字は水増しし、暗いニュースは少なめに、というのがこの国の常識だから、実際の自殺者の数は、たぶん統計のはるか上をいくだろう。これを未曾有の時代といわずに何というのか。
そりゃあ、今後半世紀は下山の時代だなんて言われたら自殺もしたくなるというものです。私自身は、幸いにして定職に就き、日々くだらない事に一喜一憂するだけの経済的余裕もあるからこそ、非リア充ながらも何とか今日まで生きていますが、非正規労働にしか有り付けなかった真性ロスジェネの就職難民は、それこそ自殺かテロに走るしかありません。そんな状況下でも、大多数の「貧乏クジ世代」は、テロどころか暴動1つ起こす事なく、日々必死に働いているのです。
となれば、勝ち逃げ世代として少しでも氷河期世代に道筋を示して欲しいものですが、39ページの記述を読む限り、氏は実に不親切です。
私たちは山頂をきわめた。そして、次なる下山の過程にさしかかった。そして突然、激しい大雪崩に襲われた。下山の過程では、しばしばおこりうることだ。
そのなかから起ちあがらなければならない。そして歩み続けなければならない。しかし、目標はふたたび山頂をめざすことではないのではないか。
見事に下山する。安全に、そして優雅に。
そのめざす方向には、これまでとちがう新しい希望がある。それは何か。
いや、それが何かを知りたくてこの本を買ったんですよ私は⊂⌒~⊃。Д。)⊃
氏は1932年(昭和7年)の生まれですから、戦禍の時代から高度経済成長期、バブル期と生き抜いています。そして、現在は立派な後期高齢者ですから、あと十数年もすれば鬼籍に入る事になるでしょう。つまり、「これまでとちがう新しい希望」が何であるかを突き止める前に、自分自身は現世から勝ち逃げ出来てしまうのです。
しかし、我々ロスジェネは、今後数十年と続く「下山の時代」を生きながら、これまでとちがう新しい希望」を見付けなければなりません。そして、それが漸く見付かり、再び「登山の時代」を迎える頃には、我々自身に「お迎えが来る」事になります。やはり、これまでの蓄財であと十数年生きればいい「遊行期」の後期高齢者と、今後数十年生きていかなければならない「家住期」の現役世代とでは、「下山の時代」に対する感覚の温度差が違いすぎるような気がしてなりません。
正直、この本を読み終えた所で、私自身の「下山すべき所」は全く見えてきませんでした。自分自身の衰えから、既に私自身が「下山の時代」を迎えている事は重々承知していますが、それでも世間一般に定年退職を迎える年齢まで、あと30年近くは生き続けなければなりません。それならばせめて、日々没頭できる「仕事」を失う定年退職までの間に、再び登るべき山を見付けておきたいものです。