五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

お粗末な日本のセックス事情

 本日の締めは、こんなニュースです。

○セックス調査:日本は平均回数が世界最少

○今日のトップ:Dr.北村 ただ今診察中:日本はセックス回数が世界で最下位

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/news/20051110org00m100064000c.html

 まぁ、セックスレスというよりはレスセックスといった感じで、本当に「お務め」程度しかセックスしていないって事なんでしょうね。とはいえ、私自身が年間平均45回という回数に全く実感を持てないという事は、私のようなセックス難民がいる一方で、算術平均を押し上げているヤリチンイケメンが存在するという事ですから、それはそれで複雑なものがあります。ちったあ分けろよ、と。



 さて、金銭的な貧富の格差よりも一足早く顕在化した性的な貧富の格差ですが、その背景にあるものは、恋愛資本主義に取り憑かれた女性と、恋愛資本主義に厭気が差した男性の姿です。そして、恋愛資本主義から取り残された男性の受け皿となっているのが、本田透氏が言う所の「デジタル恋愛」なのです。
電波男

電波男

 所詮、恋愛資本主義の世界においては、一部のイケメンだけがセックスという富を独占できるようになっているのです。どんなに足掻いてもテメエが恋愛資本主義の被搾取者にしかなり得ないという事を悟ってしまえば、あとは恋愛資本主義から解脱し、「デジタル恋愛」に生きるのみです。
 幸い、日本においては、恋愛資本主義と同時に、こうした「デジタル恋愛」市場も非常に発展していて、既にあらゆる男性の恋愛需要を満たせるだけのインフラが完備されているといってもいい状態です。北村邦夫氏は、上記の記事で

 これらの結果をふまえたわが国の特徴はといえば、日本人の初体験の平均年齢は17.2歳で昨年より低年齢化しているものの、年間のセックス回数は世界で最も少ないこと。セックスライフに対する満足度は極めて低く、パートナーに自分の欲求を伝えられない現実も明らかとなっています。性的欲求は強くない割合も高いことからセックス回数が少なくなる理由もうなずけます。

 と指摘していますが、「デジタル恋愛」が普及すればこういう結果になるのは当然の事であり、驚くよりも寧ろ本田透氏の先見の明に感服するばかりです。何せ、わざわざ3次元の女性とセックスする必要はなくなるのですし、2次元の女性がパートナーであれば、パートナーを満足させる「手続き」も必要なくなります。自分の欲求など、伝えるまでもなく実行に移すまでです。
 こうした、お手軽かつ絶対に裏切らない「デジタル恋愛」の普及によって、従来の恋愛資本主義体制は大打撃を受けている事でしょう。特に、ラブホテルやキャバクラ、或いは数多の射精産業など、所謂「在日ビジネス」といわれる業界にとっては、「デジタル恋愛」の普及は致命傷にすらなるでしょう。だからこそ、「在日ビジネス」業界は従来の恋愛資本主義体制に乗っかってオタクバッシングに余念がない……というのは穿ち過ぎですかね。まぁ、この「恋愛資本主義 meets 在日ビジネス」論は、So-net blog時代に書いたような書かなかったような……。



 元々、日本においては、性情報が「氾濫」とまではいわなくても簡便に入手できる状態にありました。男性誌を見ればセックス特集、女性誌を見てもセックス特集、オヤジ向け週刊誌にはヌードグラビアや風俗情報、果ては日経にまでエロ小説と、性情報と無縁に生活する事が不可能なくらいです。他国に比べて劣っている事といえば、精々「表」のメディアで性器モロの動画・静止画が流れない事くらいですが、これは何れ解禁に向かうのではないかと思っています。
 日本の性情報入手自由度は、恐らく世界で最も高い水準にある事でしょう。それもそのはず、日本の産業の原動力は恋愛資本主義だからであり、セックスという燃料なくして、既存の日本経済は成り立たないからです。この意図的ともいえる性情報の「放流」により、日本人は世界でも例を見ないほどスケベな国民になりました。しかし、恋愛資本主義にとって誤算だったのは、いざこれから「性情報放流」の投資回収という段で、「デジタル恋愛」に上がりを浚われた事です。
 そう考えれば、「有害図書」狩りが何故か美少女コミックのみをターゲットとし、より広い読者層を持つ男性誌女性誌のセックス特集記事がスルーされているのも、当然の結果という事になります。恋愛資本主義にとっては、オタク市場とは常に「マイナーなもの」「卑しいもの」「恥ずべきもの」でなければならないのです。秋葉原再開発という「オタク街破壊工作」は、恋愛資本主義の橋頭堡設営に他ならないような気がしてなりません。ここ10年ですっかり姿を変えてしまった秋葉原駅前の風景を前に、私はそう思うのでした。