五月原清隆のブログハラスメント

これからは、セクハラでもない。パワハラでもない。ブロハラです。

没個性のエロティシズム

 で、今日は野暮用で相模原市内の某大学に行ってきたのですが、その用事が用事なだけに、リクルートスーツ姿の女子学生が目立ちました。男子にしろ女子にしろ、制服やリクルートスーツを纏うと自然に没個性となるものですが、何故か女子の没個性は私のエロティシズムを掻き立てます。濃紺のスーツに純白のブラウスを着た女子学生は、私にとっては非常に淫靡な存在なのです。
 この没個性のエロティシズムは、何も私が提唱者なのではありません。文学界においては、女性の没個性がエロティックであるというのは常識らしく、実際にその種の小説は多く見られるそうです。女性が没個性であればあるほど、女性そのもののエロティシズムが浄妙に浮かび上がってくるのだそうで、その没個性の最たるものが、喪服なんだそうです。その視点からすれば、井上靖の愛人だった女性*1が、井上靖の死後に出版した回想録で喪服姿の写真を掲載していた事は、ある意味エロティシズムの昇華であるとも言えるでしょう。
 私は、この説を中学時代に古文の授業で習いましたが、世の中を見回してみれば制服フェチなる嗜好が立派な市民権を得ている事を見るに、この没個性のエロティシズムにも納得です。しかし、JGCになるほど飛行機に乗っていると、却ってスチュワーデスやグランドホステス*2の制服では萌えなくなってくるのが不思議です。やはり、剰りにも日常的に慣れ親しんでいるからなのでしょうかね。制服萌えには、没個性だけでなく、神秘性やタブーといった要素も必要なようです。



 と、ここまで書いておいてこんな事を書くのも難ですが、単に没個性であるというだけではエロティシズムの発露には繋がらない、と私は考えています。没個性の中にキラリと光る個性が覗いてこそ、初めて没個性はエロティックたり得るというのが私の持論です。制服やスーツそのものは極めて没個性ですが、ブラウスから透けて見えるブラジャーや、束ねられた髪の裾から覗く*3は、紛れもなく個性そのものです。私は、そのキラリと光る個性にその女性の存在を感じると同時に、限りないエロティシズムを感じるのです。
 まぁ、こんな事を書くとまたぞろ「セクハラだ」とか何とか言われそうなものですが、このブログがセクハラに満ちたものになる事は、タイトルやハンドルネームから即座に察して欲しいものです。別にトラックバックを送っているのでもなし、厭なら見てくれるなって話ですね。サーチエンジンの類で偶然ここがヒットしたにしても、大抵はろくでもないキーワードでの検索でしょうしね。

*1:この女性、確か週刊新潮だか週刊文春だかに、「私は井上靖の子供を4人堕ろした」とかいう手記を寄せていました。井上靖の死後間もない頃の話なので記憶不鮮明ですが、当時はかなりセンセーショナルに取り扱われたような気がします。まぁ、4回も堕胎してなお井上靖に縋ろうという所に、私は女性の情の深さ(良い意味でも悪い意味でも)を見ます。

*2:敢えて「キャビンアテンダント」「グランドスタッフ」と書かなかったのは、野郎の制服姿には抑も萌えもエロも何も感じないからです。残念ながら、今のところ私には衆道の趣味はありませんからね。

*3:「こう」ではなく「うなじ」です。念の為。